『オードリー・ヘプバーン』

昭和29年4月27日 オードリー・ヘプバーンの初主演作「ローマの休日」が公開。日本列島はたちまち知的で清楚な彼女の魅力に取り付かれました。観客動員は記録を塗り替え、女性たちの間では「ヘプバーン・カット」が大流行しました。

【ちょっとギブリア】
オードリー・ヘプバーン〜
1929年5月4日〜93年1月20日、ベルギー・ブリュッセル生まれ。
世界の恋人」「世紀の妖精」と謳われたオードリー。『ローマの休日』で世界中の人びとを魅了し、アメリカ映画の初出演でいきなりのアカデミー賞主演女優賞受賞という快挙を成し遂げました。

【超ギブリア】

≪プロフィール/オードリー・ヘプバーン≫

【生年月日】1929年5月4日

【没年月日】1993年1月20日 (享年63歳)

【生誕地】ベルギー ブリュッセル

【性別】女 【身長】約170cm 【職業】女優

【略歴】
父ジョゼフ・ヘプバーン=ラストンはアイルランド系イギリス人の銀行家、母エラ・ファン・ヘームストラはオランダのヘームストラ男爵家の出身。 異父兄アレクサンデルとイアンがいる。


5歳、両親の絶えない口論から自分の殻に閉じこもるようになった娘を立ち直らせるため、母はオランダからロンドン郊外の私立寄宿学校に送り込む。


6歳、父ラストンは過激な政治思想に傾倒し、ヘームストラ家の財産をつぎ込んだ後、家族を捨てて家を出る。


9歳、両親が正式に離婚。 親権をめぐる両親の争いのあと母が娘の優先保護権を得る。


10歳、1939年9月、イギリスがドイツに宣戦布告。 母は中立国であるオランダが安全だと考えて娘を呼び戻し、公立学校の5年生に編入学させる。 だが、一家が落ち着いたアルンヘムにもドイツ軍は進駐し、家や財産を接収され耐えがたい貧困と飢えを戦火の中で体験する。


12歳、アルンヘム音楽学校で本格的なバレエの稽古を始め、学校の公演会ではその実力と美しさで目立った存在となる。


戦火の中でナチスと闘うレジスタンス活動を助けるため、ドイツ兵を警戒する見張りを立てたクラシック・バレエの秘密公演に出演、集めた金を活動費用に献金したり、子供であることを利用して情報連絡の手伝いなどをする。


16歳、ドイツの総統アドルフ・ヒトラー自決4日後、オードリーの誕生日にオランダが解放され、戦争が終結。 このとき身長168cm、体重41kg。 5年間の窮乏生活で喘息、黄疸、著しい栄養不良にかかっていた。


19歳、オランダの旅行映画「Nederlands in 7 lessen」にスチュワーデスのチョイ役で初出演。 作品としては79分のオランダ語版と38分の英語版があるが、両方とも興行的には失敗でオードリーは批評家の目に止まることもなかった。


19歳後半、ロンドンのマリー・ランバート・バレエ・スクールの奨学金を得て、母と2人でイギリスに渡り、バレエのレッスンを続ける。 週末と休日には商業写真家のモデルのアルバイトをしたりして、母と娘はつましいながら心豊かな生活を過ごす。


20歳、バレエのレッスンに励むが、ランバートからクラシック・ダンサーとして成功する才能がないと言い渡され、自分でもソロ・バレリーナとしての挫折感を深める。


舞台「ハイ・バトン・シューズ」のコーラス・ラインのテストを受け、受験者千人の中から選ばれた10名のうちに入り、初舞台を踏む。 291回続いたこの公演で、わずかではあるが定収入を得ることになる。 この他にもショウをかけもつ一方、人気の老性格俳優フェリックス・エイルマーの「ヘンリー5世」や「ハムレット」での演技に感動し、彼のもとで演技指導を受ける。


22歳、「Monte Carlo Baby」のロケで南仏モンテカルロに行ったとき、ブロードウェイの舞台「Gigi」の主役を探していた作家シドニー=ガブリエル・コレットの目にとまり、11月から翌52年5月まで舞台初主演。


24歳、舞台「Gigi」を見た監督ウィリアム・ワイラーに認められ、「ローマの休日」に抜擢される。ラブ・ストーリー「ローマの休日」で映画初主演。 訪問先のローマで公務に飽きてひそかに館邸を脱け出し、街で知り合ったアメリカ人の記者と恋に落ちる某国の王女を愛らしく気品高く演じて、大ブレーク。 主演デビュー作ながら、1954年度アカデミー賞およびゴールデン・グローブ賞で、各主演女優賞を受賞。 一躍人気女優となり、彼女のファッションやヘア・スタイルも世界中で大流行する。 翌年の日本公開でも興行収入第1位の爆発的ヒットとなる。


「ローマの休日」で共演したグレゴリー・ペックから、彼の友人で俳優や脚本、舞台演出も兼ね、スターダムへの道を登りつつあるメル・フェラーを紹介される。 メル・フェラーに誘われ、ブロードウェイで上演する舞台劇「オンディーヌ」にフェラー共演で主役出演。 人間と結婚することによってしか魂を手に入れることのできない水中の妖精を演じる。 この演技で最優秀舞台女優に与えられるトニー賞を受賞。


25歳、ラブ・ストーリー「麗しのサブリナ」でパリモードから抜け出たような美人に変身、2人の兄弟のどちらからも愛される娘の役を演じ、アカデミー主演女優賞2度目のノミネートを受ける。 日本での興行収入はこの年の3位を記録する。
9月、12歳年上のメル・フェラーとスイスで結婚。 フェラーはこれが3度目の結婚で、子供が4人いた。


29歳、ヒューマンドラマ「尼僧物語」で次第に教義への疑問を深め、悩むクリスチャンの看護尼を演じる。 役づくりのため訪れたコンゴの病院で、看護尼として働くシスター・アベに会い演技の参考とする。 このとき、貧困ゆえに治療を受けられず短命に終わる子供たちを目の当りに見て心を痛める。 アカデミー主演女優賞3度目のノミネートを受ける。


30歳、ラブ・ストーリー「緑の館」で、メル・フェラー監督のもと、アマゾン奥地に追われて来た若者と愛し合う少女の役を演じる。 しかし、批評家にも一般の観客にも評判は良くなく、2人がかりの映画製作はこれが最後となる。
西部劇「許されざる者」でインディアンの血が流れる娘を演じる。 ロケ地のメキシコで乗馬の経験がないにもかかわらずスタンド・インを使わず、牧場で何時間も練習し予備撮影中、馬が急に頭を下げた拍子に馬の頭越しに地面に投げ出され、重傷を負うが 1ヶ月余入院後、再び同じ馬に乗り撮影を終える。 入院中付き添った看護婦はコンゴの病院で出会ったシスター・アベだった。
長男ショーン誕生。


「オードリー落馬で負傷、入院」のニュースを見て、音信の絶えていた父親ジョゼフ・ヘプバーン=ラストンから入院先に手紙が来る。 退院後、この手紙を手がかりにアイルランドに隠棲の父を訪ね、10歳のときロンドンの空港で別れて以来の再会を果たす。 それ以後、父が90歳で亡くなるまで生活の援助を続ける。


32歳、ラブ・ストーリー「ティファニーで朝食を」で同じアパートに越してきた小説家と恋に落ちる純真で愛らしいコール・ガールを演じ、アカデミー主演女優賞4度目のノミネートを受ける。


34歳、1963年5月29日、彼女の大ファンであったジョン・F・ケネディ大統領の46回目の(そして最後の)誕生日にニューヨークのホテルで開かれた誕生パーティに招かれ、「ハッピー・バースデー、ディア・ジャック」と歌って、招待のお返しをする。 (ちなみに、前年1962年の誕生パーティではマリリン・モンローが招待され歌っている。)


35歳、ブロードウェイのロングラン大ヒットミュージカルの映画化「マイ・フェア・レディ」で、言語学者の指導により社交界の花形に変身する貧しい花売り娘を演じる。  同作品は作品賞を含めアカデミー8部門を独占し、興行的にも大ヒットする。 ゴールデン・グローブ女優賞受賞。


38歳、サスペンス「暗くなるまで待って」で麻薬を縫い込んだ人形をめぐる盲目の人妻を演じ、これまでのお嬢さん女優から脱皮、芸域を広げる。 1968年度アカデミー主演女優賞に5度目のノミネートを受ける。
夫メルの女性問題が発覚し離婚。 私生活の悩みから50kgあった体重が43kgに落ちる。


39歳、エーゲ海クルーズに招待され、船上で知り合ったローマ大学の助教授で女性の鬱病専門のクリニック院長でもある若くてハンサムな精神科医、9歳年下のアンドレア・ドッティとスイス、モルジュの町役場で結婚式を挙げる。 生活の場をローマに移し、長男ショーンはローマのフランス人学校に入る。


40歳、1970年、次男ルカ誕生。


42歳、クリスマスにテレビ放映されたユニセフ製作「A World of Love(1971)」にゲスト出演、イタリアのユニセフの活動を報告する。


47歳、ローマで有名人を狙う犯罪が多発する中、ショーンとルカが路上で尾行されているという警告を警察から受ける。 続いて不審な電話が何度かかかってきたため、2人の子供をスイスの家に移し、学校も転校させる。 このため、スイスの子供たちとローマの夫との間を頻繁に往復することになる。


51歳、父ジョゼフ・ヘプバーン・=ラストン没(享年90歳)。


53歳、女遊びを男の甲斐性と考え、それを実行する夫アンドレアの長年の素行が改まらずついに離婚。


ロサンゼルスの親友の内輪のパーティで、テレビの人気西部劇シリーズのスターで、7歳年下のロバート・ウォルダースと出合う。 ロバートは妻を亡くして間がなかったが、戦時中ごく近くに住んでいたことも分かり、互いに生活の相談などをしあううち2人の距離が接近する。


55歳、同居の母エラ・ファン・ヘームストラ没(享年84歳)。


59歳、生来、子供好きで他人の子供にも深い愛情を惜しみなく注ぐ性分から1988年、国連児童基金特別大使の任務を「人生の最終章でもらったボーナスのよう」と喜んで引き受け、世界の子供たちをあらゆる困難から救うための活動に専念する。 4年間にエチオピア、トルコ、南アメリカ、中央アメリカ、スーダン、バングラデシュ、ヴェトナム、ソマリアと巡礼の旅を続け、各地の悲惨な状況を世界の人々に訴え、注目を集める。


60歳、森林火災で命がけの活躍をする消防士の愛を描いたファンタジー「オールウェイズ」に天使役で特別出演。 これが映画の遺作となる。


世界の名園を紹介するテレビ・ドキュメンタリー「Gardens of the World」の最初のロケーション撮影がオランダで行われる。 いわば里帰りともいえるこの機に、白く輝くチューリップにオードリー・ヘプバーン・チューリップとその名を冠してたたえられる。


63歳、1992年夏、ソマリアでのユニセフ活動を終えてスイスの自宅に帰り、数週間休養した後、ロバートとニューヨークでの催しに出席するため、10月にアメリカへ出発するが、ショーンに会うために立ち寄ったロサンゼルスで腹部の痛みがひどく緊急入院。 悪性腫瘍が発見され11月2日、結腸部分切除手術を受ける。


63歳、1993年1月20日、スイスの自宅で家族に見守られる中、穏やかに息を引き取る。結腸ガン。


他界の翌日1月21日は偶然、テレビ・ドキュメンタリー「Gardens of the World」の初放映予定日で、予定通りオードリーが庭園を案内する姿がテレビ放映される。


2000年、ジェニファー・ラブ・ヒューイット主演でその生涯を描いたテレビ・ドラマ「オードリー・ヘプバーン物語」が制作される。


ショーンとルカが母親の活動を継承し「オードリー・ヘプバーン・ハリウッド児童基金」を設立、結婚こそしなかったものの晩年を支えたロバート・ウォルダースが理事として名を連ねる。


2003年、米郵政公社は人気記念切手シリーズ「レジェンズ・オブ・ハリウッド」(ハリウッドの伝説)の第9弾としてオードリー・ヘプバーンの切手を発売。

【晩年の住居】スイス、ジュネーヴ湖の北のトロシュナ=シュール=モルジュ

【離婚した夫】
メル・フェラー 1917年8月25日 86歳 俳優(「戦争と平和(1956)」、「スクリーマーズ(1979)」)、監督(「緑の館(1959年)」)、プロデューサー(「暗くなるまで待って(1967年)」)
アンドレア・ドッティ 1938年 65歳

【家族構成】
長男 ショーン・フェラー 1960年1月17日 44歳 俳優(「They All Laughed(1981年)」)、助監督(「Bound by Honor(1993年)」)、プロデューサー(「Good to Go」(1986年))
次男 ルカ・ドッティ 1970年2月8日 34歳 グラフィック・アーティストとしてパリで生活
内縁の夫 ロバート・ウォルダース 1936年 67歳 ユニセフからの依頼で自分で撮影したビデオを編集し、ドキュメンタリー「オードリー・ヘプバーンは語る」(最後の日々の活動の記録)を製作。 ユニセフに多くの時間を費やしている。

【趣味】
花園の手入れ、犬と遊ぶこと

【話せる言語】
オランダ語、英語、フランス語、イタリア語

【墓所】
Tolochenaz, Vaud, Switzerland


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≪出演作/オードリー・ヘプバーン≫

Nederlands in 7 lessen(1948年)
High Button Shoes(1948年)
Young Wives' tale(1951年)
Gigi(1951年)
Monte Carlo Baby(1952年)
初恋(1952年)
ローマの休日(1953年)
オンディーヌ(1954年)
麗しのサブリナ(1954年)
戦争と平和(1956年)
パリの恋人(1957年)
昼下がりの情事(1957年)
尼僧物語(1959年)
緑の館(1959年)
許されざる者(1959年)
ティファニーで朝食を(1961年)
噂の二人(1961年)
シャレード(1963年)
パリで一緒に(1963年)
マイ・フェア・レディ(1964年)
おしゃれ泥棒(1966年)
いつも2人で(1967年)
暗くなるまで待って(1967年)
ロビンとマリアン(1976年)
華麗なる相続人(1979年)
ニューヨークの恋人たち(1981年)
おしゃれ泥棒2(1986年)
オールウェイズ(1989年)