2001年、7月。築地ブディストホールの客席で久間は祈っていた。
「このシーンさえうまくいけば、このシーンさえ…」
主人公真理が、帽子を取り長い髪を出して自分が女だと告白する、この作品の山場だった。
真理役のあづさが帽子に手をかけた。祈るように組んだ久間の手に汗がにじむ。
「三度目の正直だ。頼む、ズラ。頼む、ズラ。ズラ、ズラ、ズラ!」
声に出していた。
周りの客が何人か席を立った。
脚本二作目となる「星より昴く」、久間は2001年の再演が初めての演出だった。当時の稽古場に入団希望で訪れた見学者に、久間はこの作品への想いを語った。
「これはあんまりきれいなラブストーリーじゃないんだ。今風のクールな感じじゃなくてね。売れないコメディアンを世に出そうと頑張る不器用な女の子の話。男のふりをしてそのコメディアンに尽くすんだけど、最後には自分が女だってバラさなきゃいけなくなる。帽子を取るとね、長くてさらさらできれいな髪がお客さんの目の前に現れる、そこがこの作品のクライマックス」
見学者はその話に引き込まれた。
「だからね…これなんだ」
久間は鞄から大事そうに、あるものを取り出した。
ズラだった。
過去三度上演されたこの作品の主人公、真理を演じた女優はいずれもショートカットだった。帽子に隠れた長い髪を表現するには、ズラが必要だった。
「ズラ待ちでーす」
見学者は耳慣れない待ち時間に戸惑った。稽古場の更衣室で、真理役のあづさがヘアピンと格闘しながらズラを装着していた。
30分が過ぎた。
「お待たせしました」
長い待ち時間の末、稽古場に現れたのは、アフロヘアのズラをかぶった松本陽一(当時26)だった。
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松本陽一(当時26) |
「お待たせしました」
続いて、小沢和之(当時32)が女性用のズラをかぶって現れた。
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小沢和之(当時32) |
見学者は言葉を失った。
「他にもけっこうズラがいるんだ。コメディだからね」
久間は事もなげに説明した。
「お待たせしました」
富沢謙二(当時30)が薔薇をくわえて現れた。衣装はシースルーだった。
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富沢謙二(当時30) |
「じゃあ準備が整ったところで三幕の稽古にいこうか」
見学者はゆっくりと、帰る準備をした。
久間は1995年の初演で、サンライズ出版の記者、権藤役で役者として舞台に上がっている。
「97年の「桐の林で二十日鼠を殺すには」の天宮良蔵役より、ずいぶんとやりやすかったね。だからって訳じゃないけど、アンケートNO.1だったよ」
普通に自慢した。
当時を記録したVTRにその様子が残されている。
作品の舞台となる崎山プロダクションの社長に見つかり、サンライズ出版の名刺を渡すシーン。久間は颯爽と舞台に登場した。
「いやあ、見つかってしまいましたね。どうも、崎山プロダクションの…」
久間の表情が曇った。
「崎山プロダクションの…は、ここでしたね。ははは。私は、サンライズ、出版の権藤です」
グダグダだった。
稽古場ではクライマックスシーンの稽古が始まろうとしていた。見学者は今までとは違う張り詰めた空気に息を呑んだ。
「このシーンは今までずっとうまくいかなかったんだ、三度目の正直だ。頼むよ」
久間の激が飛んだ。
あづさが帽子を取る。髪は団子状になっていた。
「もっとこう、さらっと落ちる感じ。そう、ビダルサスーンみたいに」
久間は白熱していた。
「ビダルサスーンだよ、分かるでしょ」
帽子を取る。ズラごと落ちた。
「ズラが落ちたら笑えないよっ。ビダルサスーンもう一回」
帽子を取る。静電気で逆立った。
「ビダルサスーン!」
帽子を取る。あづさは泣きそうだった。
「ビダルサスーン!!」
見学者は、そっと稽古場を後にした。
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この帽子をとると |
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こうなる。× |
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こうなる。○ |
築地ブディストホール。舞台上のあづさは自信満々だった。ヘアピンを30本駆使し、静電気防止リングをそっと腕にはめ、大きすぎず小さすぎない帽子を特注し、ズラは毎日リンスしていた。馬用だった。
帽子を取る。髪がさらりと流れるように落ちた。
その瞬間、舞台上にいる役者、袖で見守るスタッフ全員が心の中でつぶやいた。
「ビダルサスーンだ」
その後もあづさは、運命に導かれるように別の台本で3回ズラをかぶることになった。
ズラ女優の誕生だった。
次回は「公演中止か!?〜台風接近!山の手線が止まった夜〜」 |
― 紅い華のデ・ジャ・ヴュー ― |
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