久間は劇場のロビーにかかってくる電話の対応に追われていた。
「はい、予定通り公演は行いたいとは思っているのですが…はい、わざわざありがとうございます」
朝から鳴り止まない電話にメンバー達は不安を募らせた。すべてチケットキャンセルの連絡だった。
「このままだと誰も来ないかも知れないな」
「せっかく長い間稽古してきたのに…」
ロビーに置かれた小さなラジオからニュースが流れていた。
「台風17号の被害の状況です…」
1996年、9月。関東直撃だった。
「小田急線全線運転見合わせ」
「東海道線全線運転見合わせ」
「首都高速台風の為、通行止め」
午後になってさらに勢いを増した台風17号は、300ミリを超える降雨で関東南部を通過していた。
「一気に通り過ぎないかな」
「ちょうど台風の目がきた時に上演するとか」
そんな冗談を飛ばしながら、それでもメンバー達は発声練習を開始した。昼公演の開演時間まであと2時間。祈るような気持ちだった。
久間はラジオを止め、メンバー達の元に向かった。公演中止か。一番辛い選択をしなくてはいけなかった。
久間は舞台上でアップをしているメンバーを集め、最新の情報を伝えた。
「今、山の手線が…止まった」
交通網は完全に遮断された。
|
再演より 「天豹:富沢謙二(左)、
儀傑:松本陽一(右)」 |
1999年の再演では、当時デビュー二戦目の附田泉が主人公明蘭に抜擢された。キャスティング発表の夜、久間は附田に作品への思いを語った。
「この作品は君の演じる明蘭にかかっている。荒くれ者の天豹という男が、絶世の美女と謳われた明蘭と出会って、改心し、自分の犯した罪を背負って生きていくという物語なんだ。絶世の美女ってのがポイントなんだよ。絶世の美女」
「無理ですね」
あっさり断った。
「君なら出来るよ。間違いない」
久間の熱心な説得に、附田は次第に胸の奥から熱いものがこみ上げてくるものを感じた。
「そうだな、まずそのイカリ肩を直そうか。それからもう少し顔を小さくして、なんせ絶世の美女だからね」
すぐひっこんだ。
ロビーの扉が開いて、ずぶぬれになったスタッフが戻ってきた。30メートル先のコンビで買ってきた弁当を大事そうに抱えていた。
「傘もさせませんね、今の状況じゃ」
スタッフは濡れた弁当をメンバーに配りながら言った。
久間はメンバーに言った。
「よし、今のうちにしっかり食っておこう。公演は夜もあるんだ、夜になれば少しは落ちつくかも知れない」
「それって、昼公演は中止ってことですか」
受付の準備を始めていた制作の天田が呟いた。
公演中止−。久間はこの言葉をまだ発してはいなかった。
その時、ロビーの扉が開いて、折れた傘を持ったずぶぬれの男が飛び込んできた。まるで服を着たままプールに飛び込んだ、そんな状態だった。
男は、息を整えてから、唖然としているメンバー達に言った。
「あの…公演、やってますよね」
最初の客だった。
|
番外新人公演より 「虚雷:松本雄介(左)、
天豹:妹尾伸一(中)、明蘭:加藤祐子(右)」 |
この作品は、2001年の新人公演でも上演されている。主人公天豹を演じることになった妹尾伸一は、久間に弱音を吐いた。
「わしなんかに、天豹ができるんじゃろか」
タメ口だった。
「大丈夫だよ、この天豹って男は別に美男子でなくてもいい。むしろ無骨なほうがいいくらいだから、思い切り演じればいいよ。そうだな、例えば、髪型とか衣裳とかを変えてみたらどうだ。もっとワイルドな感じにしてみたらどうだろう」
久間は優しくアドバイスした。
「ワイルドか。ちょっくらやってみますわ」
翌日の稽古場、髪型を変えイメージチェンジをした妹尾が現れた。
久間は言葉を失った。
「ワイルドな髪型にしてみたんじゃけど」
アフロだった。
客席いる数人は皆、タオルをかぶっていた。
かろうじて動いていた地下鉄を乗り継ぎ、雨の中を格闘して、劇場までたどり着いていた。
開演五分前。久間は、天豹役片岡貴之、明蘭役長澤ゆかりらメンバー全員に、ゆっくりと語りかけた。
「俺達は長い間稽古して、出来るだけ沢山のお客様にこの作品を観てもらおうと頑張ってきた。客席はガラガラだ。でも、今日いらっしゃったお客様には感謝してもしてもしきれない。絶対にいい芝居にしよう」
|
初演より 「天豹:片岡貴之、明蘭:長澤ゆかり」 |
久間は今でもあの時のお客様の顔を忘れないという。
カーテンコール。舞台上の役者の数と客席に座っていた客の数は同じだった。
客席にいる人は雨で。役者は汗と涙で。
みんなずぶ濡れだった。
|